(Jan.13.1995)
しかし,外交的な敗北とは逆に,経済面では着実な発展を遂げ,現在では1人当たり国民総生産は1万ドルを突破し,韓国を追い抜いた。外貨準備高も904億ドル(1994年7月)と日本と首位を争うほどに成長している。この台湾の急速な発展は,どうやって成し遂げられたのだろうか。
1858年の天津条約によって淡水,安平が開港されると,一層の発展を遂げ,砂糖,茶,樟脳を目当てにした欧米商人が大挙して台湾に押し寄せたという。この時期の貿易統計によれば,1865年の輸出量を100とした場合,1895年には砂糖が485,樟脳は670と驚異的な伸びをしており,同様に1870年から1895年の間に烏龍茶の輸出量は14倍近い伸びを示した。この輸出の伸び幅は,すなわち生産量の増大を裏書きしているとみなしてよいだろう。
日清戦争後の1895年,台湾が日本に割譲されると,日本はまず対岸貿易関係の切断と関税制度の改正を行い,度量衡を統一し,土地調査を実施して土地制度を確立するなど,経済の基礎固めに専念した。
1905年の日露戦争期を境に,日本は本格的に植民地型の開発に着手する。
まず最初に手が付けられたのは,新式の機械制工場による製糖業の導入である。しかし,高い生産力をもつ工場も,強固な地主的土地所有に阻まれて,大規模なプランテーションを建設することができなかったため,原料の80%は地主と小作農からの供給に依存していた。製糖業の近代化により,砂糖生産は1905〜9年の平均を100とすると,1915〜19年の間に429%増え,1930〜39年には1026%に拡大した。また,そのうちの95%は日本市場に輸出された。
稲作農業の開発は,1906年頃から品種改良などが手掛けられ始めたが,本格的な発展は1918年の日本の米騒動以降であった。1922年に日本市場の消費嗜好に向き多収量の新品種・蓬莱米が登場すると,総督府の産米増殖政策とあいまって,米の生産高は着実に増大していった。これは,東南アジアで1960年代に展開された「緑の革命」に先立つこと40年前の台湾版「緑の革命」でもあった。1915-19年を100として,1935〜38年の産高指数は195%となり,米の生産は20年間で倍増したのである。
総督府は灌漑設備を整備すると共に,米とサトウキビの作付けの競合(米糖相克)を防ぐために,三年輪作制を導入するなど,計画的に,さらなる農業の振興に努めた。
日本の敗戦(中国側から見れば「光復」)後は,中央政府により農地改革が行われ,地主・小作制度が解体された。また,糖業が官営化され,米穀流通は統制下におかれた。このことにより米糖相克は解消されたが,これは明らかに貨幣経済の後退であった。しかし,外貨獲得や食糧確保など,農業が戦後台湾の工業化と経済発展に果たした役割は,極めて大きなものである。1950年代は輸出の80%が農産物で占められ,1960年代前半まで輸出の半分以上を占めていた。ここまで順調に発展してきた台湾農業も,急速の工業化の伸展により,1970年以降は農業部門の成長率が伸び悩み,ここ数年はマイナスまたはゼロ成長の年が続いている。これは,台湾が農業社会から工業社会へ移行している証しでもある。
台湾の工業化は,日本の植民地開発政策の転換があった1930年代後半から本格化した。日本は台湾を南進の生産基地とするため,1934年に日月潭水力発電所を完成し,1935年にはアルミニウム,合金鉄,製紙,化学肥料,アルコール,ソーダなどの新興工業を導入,更に1937年には製鉄,機械,石油,油脂などの重化学工業を新設した。この工業化は明らかに,日中戦争及びその後の太平洋戦争の軍事的要求によるものであった。そのため,戦争中にその75%が大破し,終戦時には,工業生産機能の大部分は麻痺状態に陥っていた。しかしながら,これらのかなりの部分は修復され,光復後の工業化に受け継がれることとなった。
光復後,台湾の産業の91%を占めた日本人企業が殆どそっくり国有化されて官営企業に変わった。これが何を意味したかというと,この膨大な近代産業が国民政府の官僚主義的経営にゆだねられたのである。この頃,国民政府の官僚は,標準語(北京官話)の話せる人間,つまり大陸からやってきた人々であった。官僚主義の非能率・腐敗と,大陸からの悪性インフレの波及により,台湾経済は混乱を極めた。1946〜51年の5年間だけで,物価は9600倍になったといえば,その混乱ぶりがわかるだろう。(このあたりの事情は映画「悲情城市」にも描かれている)
1949年の大陸撤退直前,国民政府は,台湾経済の悪性インフレによる崩壊を食い止めるため,台湾貨幣と大陸貨幣の関係を切断し,台幣の4万分の1デノミネーションを実施した。さらに,農地改革を断行,一方で地価補償の対象として一部官営企業を地主層に払い下げた。セメント,製紙,農林,工鉱の4大企業のうち,農林と工鉱の2企業は日本の中小企業を接収して組織された企業集団で,とても官僚経営の手におえるものではなかったのだ。
この時期にはいくつかの特殊な要因もある。その第1は,大陸での国民党政権の敗色濃い1948年頃から起こった,上海を中心とする紡績企業の台湾移転である。第2は朝鮮戦争勃発をきっかけとしたアメリカの対国民政府援助である。1951〜65年の15年間に年平均1億ドルにのぼった援助は,軍事援助が半分強を占めたが,残りは経済援助であった。また余剰農産物として原綿の援助も行われた。第3は,国民政府の大陸撤退に伴う150万人の人口流入である。これらの多くは官吏,軍人とその家族という非生産的人口であり,そのうえ150万という数字は台湾の当時の人口が一挙に2割も増えたことを意味する。
増加した人口と大陸=中華人民共和国との対立に伴う軍事費支出を農業のみで賄うことは不可能であり,工業化は緊急課題であった。
1950年代は,輸入代替産業の発展期であり,紡績,食品,セメント,肥料の4業種が台湾工業の柱であった。紡績は,アメリカの原綿援助,国内市場および産業保護政策に支えられた戦後の新興産業であった。1950年代半ばには早くも低級品の自給を達成して輸出余力を持つに至った。食品とセメントは原材料が国内にあり,人口増加と軍事施設拡充などによる需要拡大に支えられ,順調に発展を遂げた。官営肥料工業はアメリカの資金援助と原料供給により拡大発展した。電力エネルギー部門も同様にアメリカの援助を受けて積極的に開発が進められた。
国内市場が狭いため,1958年頃からこれら輸出代替産業は早くも生産過剰に直面し始めた。そのため,輸出促進のための貿易,為替制度の改革が行われたほか,1959〜60年にかけて,大胆な外資導入政策が打ち出された。
1960年代から,日本企業を中心として外資が進出し始め,1965年の高雄への輸出保税加工区の設置はこの動きに一層拍車をかけた。この年はまた,アメリカの援助が停止した年でもある。この時期の対台湾投資は,米国系,日本系,華僑系の3者が中心となった。日米資本は電気機器,化学,機械,金属,電気電子の輸出加工部門に集中していた。一方,華僑資本は,国内市場を基盤とするセメント,紡績,建設,金融,サービスなどに投資をおこなった。
この時期の工業化の牽引車はすなわち主要輸出産業である,紡績,食品,セメント,合板,電気機器,プラスチックなどであった。輸出の伸長にはベトナム特需も大きく付与していた。
1970年代に入ると,1973年には重化学工業化国家プロジェクトが政府主導で展開され,交通運輸,空港港湾,原子力発電などのインフラストラクチュア部門,鉄鋼,石油化学,造船などの基幹産業部門に重点投資が行われた。
この結果,石油化学工業では合繊紡績とプラスチック加工の原料自給体制が大方確立された。鉄鋼部門では,輸入代替の役割を必ずしも果たしていないが,輸出に活路を求め,小康状態を維持している。造船は,造船不況と官僚主義的経営のため,厳しい経営不振に陥っており,韓国ほどには成功していない。
1980年代以降は,台湾経済にとって新たな転機となった。現在の台湾工業の柱であるコンピュータ産業が力をつけ始めたのである。1986年にはハイテク情報産業の生産高が世界第7位の21億ドルを数えるまでに急成長した。その他の分野でも,台湾製品は世界一の名をほしいままにした。傘,靴,ラケット,自転車,スクラップ,ゴルフクラブなどなど。また,1993年の調査によれば,台湾製パソコンはアジア全体の生産台数の47%を占めている。2位は日本の38%,3位韓国は14.5%だ。パソコンだけではない。台湾はコンピュータ電源装置,モニター装置,キーボード,スキャナ,マウスなどでも世界の30〜80%のシェアを占めている。
「牛後」より「鶏頭」を好む傾向から,台湾には企業精神に富んだ中小企業が数多く存在する。小回りの効くこれらの中小企業は,変化の速いコンピュータ業界にはうってつけであったのだ。台湾製品は,今では,世界を席捲している。
1983年に2,673ドルだった一人当たり国民総生産も,現在では1万ドルを突破した。輸出品目も,重化学工業,技術集約的な産業が全輸出産業の5割に達する一方,農業部門が1割を切るなど,産業構造が変わりつつある。一方で,李登輝総統時代に入っての,民主化,自由化,対大陸政策の見直しなどにより,台湾企業は,香港を経由して大陸へ,東南アジアへ,あるいは国交のないベトナムへと,アジア各地へ投資を始め,アジア第2の投資国となっている。
(1991年末,台湾が外貨準備高世界一になった際に李登輝総統が述べた「台湾発展の5つの要因」)
Return to "Feel like studying ?"